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月山登拝と柴灯祭参列 [旅]

出羽三山の信仰がことのほか篤かった祖母が他界して6年。

僕は小学2年生のときから毎年祖母と一緒に月山に登っていました。
足が弱り、登山がままならなくなってからも、
「あー、死ぬ前にもう一度登りたい」とよく言っていました。
生きてるうちは無理でしたが、葬儀後、お骨の一部を分け月山山頂に祀って頂き、
爾来毎年供養のために登拝しています。

2年目以降は禰宜のO様のご厚意で13日に斎行される柴灯祭、翌日の本宮祭、一山萬霊供養祭に
参列させていただいています。

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死後、魂はどこに行くのか。
日本の場合、文化の多層性を反映して一つには定まっていません。

海のかなたのニライカナイへと行く水平思想。
地下の黄泉の国へ行く下降思想。
そして、その土地の聖なる山へ上る上昇思想。

この思想の中でもおそらく最後の山に死霊が上るのが
日本人の古来からの思想だったのだと思っています。
岩木山、鳥海山、岩手山、早池峰、泉ヶ岳、蔵王、金華山とその土地土地の
ランドマーク、そして山容の美しい山に死者の魂は吸い寄せられて行ったのでしょう。

そして、海からも内陸からもその美しい姿を見ることができる月山も死者の山です。
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人は花見の行事のように、時ごとに死者の魂を神として里へ迎え、送り返してきました。
生きている人が高山に登り参るようになるのはかなり後の事です。
古来からの山岳宗教(里山が拠点です)に仏教、道教などが融合し、死者だけのものだった高山に
人が登り、神や仏を祀るようになりました。
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ただ、日本人の「心根」の部分が変わるわけではなく、登拝の目的は
祖霊供養が中心です。
月山神社は(出羽三山すべてですが)神社でありながら祖霊供養のための
霊祭場をもつ珍しい形態をとっています。
神仏習合の名残と見る意見もあるでしょうが、神道が自然神とともに、
祖先神を祀る宗教であること考えると、月山の成り立ちとも合わせ、
むしろ祖霊を祀ることのほうが神社として自然なのでは、と考えています。
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午後7時、日暮れとともに柴灯祭が始まります。
柴灯は「さいとう」と発音しますが、東北各地に「さいど」「せど」など、
同じ字を書く祭りがあります。
これも、密教の護摩祈祷以前の行事だったのではなかろうか、
と考えています。
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月山山頂の禅定と呼ばれる小さな平地に、霊祭場に立てられていた卒塔婆を
護摩木として壇を組みます。
祓、献餞の後、祭主の点火で火がつけられ、祝詞が奏上されます。
この祝詞、数々の祝詞を聞きなれた身としても、とても変わっています。
陰陽道の影響がかなり強いのです。
しかし、初めてこの祝詞を聞いた時、恥ずかしながら感応の涙があふれてしまいました。
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ひねくれ者ですから、信仰心はありますが、なにかに感応する、ってことがあまりない自分が
祝詞を聞き、涙を流すなんて驚きでした。
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最近、悪しき宗教ブームで神仏にご利益を求めたり、いわゆるパワースポットなどといい、
そこに行くだけで力を「授かる」などと寝ぼけたことを言っています。
宗教の本質などと言うと大げさですが、神道に限らず信仰の拠って立つところは
「利他」の心にあるのではないかと思っています。
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この特殊な神事で奏上される祝詞の要旨は、
月山にさまよう祖霊、悪霊にとどまらず、はるか異国の地の戦争で亡くなった霊まで
一切の霊を一柱も残さず慰め、神として世の守り家の守りとなって頂く、
というものです。
0813g4.jpg
花見もそうですが、共食で神をもてなすのが日本の古来からの思想。
祝詞の中で「心をこめて作った食事を召し上がってください」とか、
「美味しいお酒を召し上がってから各家々にお帰り下さい」(意訳)、
と死霊に対する接し様に、その辺にいるはずの亡き祖母の面影にも重なり、
感応してしまうのかもしれません。

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今年、O様のご配慮で登りがとても楽でした。
時間もあり、体を動かしてないのも申し訳なく、ちょっと散歩。
花を見ながら湯殿山方面へ。
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自家用車を利用するようになってから、8合目駐車場へどうしても戻らねばならず、
湯殿山へ下山することがなくなりました。
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鍛冶小屋跡付近から湯殿山方面を眺める。
雪渓の少し下、登山道が分かれているところが牛首というところです。
懐かしいので行ってみました。
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ここから先は湯殿の領地。
牛首は金胎二界の境と言われています。
江戸時代、羽黒月山は天台宗=金剛界、湯殿山は真言宗=胎蔵界ということです。

さて、ここまで降りてきたはいいものの、登りはきついっ!
登りは8合目から登るのが断然楽ですね(笑)
結局、下って登って、楽をした償いに少しはなったかな?
0813g8.jpg
振り返ると、寒河江ダムがくっきり。
いつもとは違う景色がみられて良かったなぁ。
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ぱんの日

私も色々考えさせられる記事でした。
お婆様との思い出の山。無事に登ることが
できてよかったですね。
by ぱんの日 (2010-08-17 13:05) 

kizママ

今年は私も実母の新盆でした。
お坊さんのお話を目を閉じて聴いていましたら
母の声がしたんですよ・・
涙が溢れてとまりませんでした。
特別な信仰心がなくても、ご先祖様や仏様を
大切に思う気持ちが大切なんだと・・
大げさなこともせず、家族のみで静かに母を迎えた
たった3日でしたが、良い供養になったと、自分では思います。

kotobukimaruさんもお疲れ様でした。
by kizママ (2010-08-17 14:19) 

ヤマト母

羽黒の里から月山の炎が見えました。私は初めてだったので感動でした。しかし85才のバ~バは身障者で2階に上れない体で家の2階に上がり手を合わせている姿を見て又感動。繋がっているんだと色々考えてしいました。素敵な記事,有難うございました

by ヤマト母 (2010-08-17 20:44) 

kotobukimaru

ぱんの日さん、
子供の頃から何十回も登っていた山ですが、
目的が供養になるとまた違った感慨があります。

kizママさん、
そうでしたね、お母様の新盆でしたね。
お母様の声が聞こえた、分かります。実際に聞こえるんですよね。
死者は死者だけど、彼らを思い、会話することはできます。
お盆だけでなく、折に触れて言葉を交わさなきゃいけませんね。

ヤマト母さん、
里から見てらっしゃったんですね。
今年の柴灯はとてもよく、仏生池、中の宮とはっきり綺麗に見えました。
親から子、子から孫へ、と繋がる出羽三山信仰、
柴灯の火も、繋がっていくものですし、
バ~バの拝む姿もヤマト母さんへ繋がり・・・

素晴らしいですね。

ナイスをくださった皆様、
いつもありがとうございます!
by kotobukimaru (2010-08-18 07:12) 

luckystream

山登りの経験が少ない私でも厳かな気持ちになるのに、
ご供養となると、さらに気持ちが粛々となりますね。

慌ただしいお盆でしたが、お仏壇の前に座ると叔父や祖母が
そこにいるような気になりました。
今私がこうして元気にいられること、皆で集まることができること、
ご先祖様やその他の神様にいつも感謝です。
by luckystream (2010-08-18 11:41) 

kotobukimaru

luckystreamさん、
そうですね、供養ももちろん厳粛な気持ちなりますが、
それよりも圧倒的な自然=自分ではどうにもならないもの
を前にした時、人は謙虚になり、神を感じることができますね。
「死」も免れ得ない大いなる自然ですし。

賑やかな新盆、生きてる人は楽しく死者を思い出してやることですよね。
本当に命の連鎖に感謝ですね。
by kotobukimaru (2010-08-20 09:19) 

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